学芸ガイド

学芸員のオススメ

野口英世直筆の書「高雅学風徹千古」

アメリカより関東大震災復興への激励
野口英世直筆の書「高雅学風徹千古」

野口英世が以前講師を勤めていた高山歯科医学院は東京歯科医学専門学校となり、恩師・血脇守之助先生が校長を務めていました。学校は1923(大正12)年9月1日の関東大震災により壊滅状態となり、血脇先生をはじめ教員・学生は悲嘆にくれていました。
英世は血脇校長をはじめ、教員・学生を激励し、復興してほしいという強い想いを込めて、この書をアメリカより贈りました。
「高雅学風徹千古」(こうががくふう せんこにてっす)
たとえ壊滅的な被害にあっていても必ず復興し、高雅で気高い学風は決して失われることなく、永遠に続くであろう

このたびの東日本大震災で心身ともに傷を負った被災者の奮起を願い、記念館2階展示室で展示公開しています。【原資料:東京歯科大学所蔵】

新収蔵資料紹介

野口英世直筆の書「持己」

野口英世直筆の書「持己」

この書は野口英世が帰国した1915年(大正4)に恩師・小林栄先生の同僚で、猪苗代町の千里小学校の教員・今泉亮氏に贈られたものです。
「持己」(おのれをじす)
おのれを高く持ち続ける

平成23年7月にご寄贈いただき、記念館1階展示室に展示公開されています。

学芸員のひとりごと

11歳で臨時教員をした清作

野口清作(後の英世)は明治21年4月から1ヶ年の間「生長」になり、臨時の教員を勤め、学校から給料をもらって下級生の教壇に立ちました。生長とは今でいう生徒会長で、清作が11歳の時のことです。生徒に給料を出したというのは後にも先にも、清作が初めてだったといいます。当時の校長・松本順次郎は、長崎県出身で大阪の師範学校卒のエリート。清作の非凡さをいち早く見出し、清作のためにこの制度を設けたようです。
清作が教壇に立つことを知った母シカは、貧しい生計の中から生徒の誰もが着てなかった洋服を買い与えことは驚きです。清作はこの時から、学校の教員になることを目標にして勉強に励んだのです。(K)

釣りが好きだった清作

明治21年(1888)7月15日、午前8時ころ磐梯山が突然に大爆発をしました。辺りは噴煙でたちまち暗くなり、夜のようになってしまいました。噴火も落ち着いたころ、清作や清三がいないことに気づいた家族は、必至で二人の行方を捜しました。しばらくすると清作は悠々と釣竿を担いで家に帰ってきたと言います。清作は大変釣りが好きで暇があると釣り糸を垂らしていて、その日も1歳の弟・清三を背負って猪苗代湖に注ぐ川に釣をしに行っていたのでした。
釣り好きはアメリカに行ってからも変わらなかったようです。別荘を購入するときに、メリー夫人自身は海が好きにもかかわらず、猪苗代と同じような風景があるシャンデーケンに決めたのは、そこに川と湖があり釣り好きの英世を思ってのことだったと言われています。(K)

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